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スシーラティーでは、長年お世話になってきたスリランカへ津波被害の救援活動を行いました。

義援金や、衣料品、衣類などを送って下さった皆様。本当にありがとうございます。
スシーラティーとして救援活動が出来たことを、心より感謝申し上げます。
2004/12/26
<津波発生> 詳細
2005/1/3〜15
<1週間後:1回目救援活動>
物資を運びました 詳細
2006/1/5
<1年後:2回目救援活動>
3件の家を建設しました 詳細 NEW
義援金使用明細 詳細

私が始めてスリランカを訪れたのは2002年2月のことでした。
それからのご縁がきっかけで、スリランカに行きたいという生徒さんの為に 紅茶旅行を何度か続けてきました。
いつも温かく迎えてくれるスリランカは、私にとって紅茶の勉強も出来て、心からリラックスの出来る、かけがえのない国でした。
そんな中、常にお世話になっていた現地ガイドのケンゾウさんがいます。
いつも、一緒にスリランカに来た生徒さんたちを、笑わせてくれて、和やかな雰囲気を作ってくれていました。
しかし、今回の津波で、そんな私達にとって、かけがえのないケンゾウさんは、帰らぬ方になってしまいました。
予期もしない出来事で、一報を聞いたときはどうして良いか分からなかったのですが、 たくさんの生徒さんたちが、「義援金や救援物資を送っても良いですか?」と、何件もお申し出があり、
「私にそんな事ができるかな?」「こんな時に個人の私が行って、
かえって足手まといになるのでは?」などど色々悩みましたが、 今までお世話になった事などを思うと、「今行かなくていつ行くんだ!」と思い、
義援金を募り、そして現地活動もすることに決めました。
そして、津波発生から1週間経った時、スリランカへと向かいました。
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津波のあった満月のその日。
スリランカはポヤデーと言って、国の祝日でした(満月の日は祝日)
祝日になると家族は子供達を連れ、海へ行ったり、人々はマーケットで買い物をしたりします。
しかも、年末のお正月休みも重なって、いつも以上にこの時期は旅行客でにぎわうのです。
そんな楽しい雰囲気の中、突然の不幸はやってきました。
しかも、「津波」という言葉も聞いた事のない人達の目の前にです。
活動をする中で、現地の人にその時の話を、たくさん聞きました。
皆さんの話をまとめるとこうです。
津波が来る、ほんの少し前、突然、海の水が1kmにも渡って引いていったそうです。
海水が引いた後には、砂浜に魚がピチピチとはねていました。
それを見た、子供達は、大喜びで魚を取りに走り出したのです。
人々は何がなんだか分からずその場にいたのは仕方ありません。
すると、数分後、津波はやってきたのです。
海岸に近づくにつれ、津波の高さは増していったといいます。
海岸の地形によっても、津波の高さやスピードは様々だったようですが、
高い津波のエリアでは、建物の3階建を優に越えていました。
そして、スピードの速いところでは、新幹線の時速を越える速さで来たと言われています。
そして、速さだけでなく、津波はすごい重さで向かってくるそうです。
海岸に近い家々は、壁を破壊され、家の中に水がどんどん入り、逃げる場も失って、
その大波の前ではどうすることも出来なかったのは、簡単に想像がつきます。
家族も離れ離れになり、ある人は胸に抱いていた自分の赤ん坊も波にさらわれていってしまったといって、自分をひどく責めて泣いていました。
波が去った後は、家の壁が突き破れた形で、かろうじて両端2面だけ残っているのもあれば、家の形跡は全く無くなり、
井戸だけが残り、昔そこに家があったことを告げているところもありました。
たとえ家は残ったとしても、その家の主は皆亡くなってしまっているところも多くありました。
助けに駆けつけた人達が、家の扉を開ける度に、そのような悲劇を目の当たりにしなければいけないのです。
それは、想像を絶する世界です。
海岸沿いに連立して建っていた商店からも、次々に犠牲者ばかりが発見されたと聞きました。
私は、後日スリランカへ向かい、道端でふと出合って、立ち話をするたびに、
皆が、すさまじい状況をくぐり抜けて来ている事を痛感するばかりです。
私がスリランカにいた時も、悲しい出来事がありました。
ある方と、活動の件で相談をする為、待ち合わせをしていたのですが、
全く約束の時間になっても現れないのです。
その方は、スリランカに家族を置いて、出稼ぎに行っていた人でした。
その日帰国と聞き、待ち合わせをしていました。
私達は、各方面を頼って電話をして彼を探していました。
すると、帰国し、家族も家も無くなっている状況を目の当たりにし、心臓発作でその当日、
その方は亡くなってしまわれたのです。
その現場が壮絶な津波の影響を彼に見せ付けたのでしょう。
あまりの事に、活動中の私達は言葉を失いました。
本当に、信じられない悲劇です。
ただ、一つだけ救われる気持ちになったことと言えば、出会うスリランカの方々が、
皆、生き残ったのは、困っている人や傷ついた人を助けるためだ。
と、言い、気丈に明るく助け合っている姿を見ることが出来たことでした。
<南部 ゴール>
<南西部 ハンバントータ>
津波に建物のほとんどが流され、
屋根のみが残った元大きな会社の建物。
津波の高さが良く分かります。
ここの広いエリアは500家族が住んでいたそうですが
今は家があったことが嘘のようです。
誰が何をしたわけでもないのに、
全くの更地になってしまっていました。
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現地で被災された方や、町の代表の方のお話を伺うと、現時点では、食料は比較的、多くの支援を得ている状況にありました。
衣類などは、スリランカは繊維業が盛んで、そこが多くの人に今、衣類や履物を提供しているそうです。
住む場所をなくした人の為の、テントや、トイレの設備などがあればとても助かるという事です。
医療関係や、精神面のケアの問題も大きな課題です。
ただ、心配されている伝染病などは、今のところ私の見る限りでは大丈夫でした。
現地の病院へ行った時もその心配は今は無いと言っていました。
日本の医療チームがワクチンを接種する活動をしているのも見かけました。
また、現時点では多くの人の興味が向いているので主に食料支援が行き届いているが、時が経ち、支援が減った時、もともと貧しく働き先のない被災者達の食料や住むところが心配材料の一つだという事でした。
もう一つ、思いがけない問題は、ニュースで見ると分かるように、スリランカの形を見ると、どうみても東側に被害が大きいと考えられるのに、被害報道や活動は、南に集中しているのが分かります。
それには、南を政治拠点にしている政治家が今のスリランカの政治では力を持っていて、支援者の多い南に支援活動が比較的集りやすいと言う現状があるようです。
東は田舎町で、貧しい人の多いエリアで、政治的にも力が弱く、イスラムやタミル人が比較的多く住むエリアになっていて、70%近くをシンハラ人が占めるスリランカではどうしても後回しになってしまっているようです。
その状況を知り、1月には、まずは東のエリアでの活動を行ってきました。
「私達はスリランカの東海岸アンパラ地方へ物資を運びました」 約25万円分
私たちは、大きなトラックを無償で貸してくれる人を見つけ、まずは生活の第一歩セットを現地で買って、持っていくことにしました。
300家族分作りました。一つずつ袋分けにしました。
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用意した物(現地の人の要望によるものです)
水1リットル
大中小のお鍋セット
せっけん(洗濯用・体用)
生理用ナプキン
紅茶を作るセット
スパイス各種
米
砂糖
ミルク
ダル(レンズ豆。日常食)
小麦粉
魚の缶詰
ビスケット
ソヤミート
などです。(一人1000円弱でこれだけ買えます。)
合計で、約25万円を使いました。
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<出発>
私が、滞在の拠点にしていたのは、津波の被害とは全く無縁の山岳地帯のキャンディでした。
物資もたくさんあり、調達しやすいスリランカ第二の都市です。
朝5時に10人のボランティアの人達とトラックとバンに分かれて乗り込み、デコボコ山道を進むこと約8時間。途中休憩を取りながら午後1時にようやくアンパラに到着しました。

<町に到着>
そこで、被災者がいるところへ直接行かず、私たちはその町のコミュニティーセンターへ向かいました。
そこには、左写真の、いわゆるお坊さんのような方がいて(イスラム教の方だったので、何と呼ぶのか分かりません)
その方が、その町の被災者所在地リストを持っているので、その方に物資は託すことになりました。なぜなら、被災者のいるところへ直接行くと、日本の人達では想像もつかないような、すさまじい取り合いになり、怪我人が出てしまう危険性があるからなんです。
しかも、その中には、被災者ではない人も紛れ込んでくるために、何も知らない人が行くと、かえって不公平になってしまうんです。

その代表の方は、事前に、被災者に整理券を配っていてくれて、
それを持っている人だけが、物資をもらえるというシステムにしてくれました。
<村の清掃ボランティアグループ>
活動の最中に、町を掃除するグループを作って活動している方にお会いしました。
皆、同じユニフォームを着て、伝染病などが噂される中、懸命に活動している姿が印象的でした。
右は、私達を案内して、現状を説明してくださった、町のお医者様です。
村の人達からの信頼も厚く、多くの情報が先生のところには寄せられます。

<この活動に参加してくださった方々です。>
活動を終え、この夜中に帰路に着く前に写真を撮らせてもらいました。
両サイドには偶然その土地を警備している方がいらっしゃったので銃を持っています。
朝5時から始まり、現地で活動を終えたのは夜8時。
キャンディに戻ったのは、翌朝の4時。ぶっ続け24時間の活動です。
にもかかわらず、完全のボランティアで参加して下さいました。
「スシーラティーの義援金には一切手をつけたくない」と言ってくれ、逆に、「スシーラティーの義援金があったおかげで、このような活動に参加できて感謝している。」とまで言ってくれました。
本当にありがたかったです。

<アンパラの村の被害状況>
ドクターが指を差している部分まで水が来たということです。
この家は海岸から200mは離れています。
もちろん、このエリアの方は、家の中で皆亡くなってしまっています。

家の屋根や壁が、元の形を想像できないほどに崩れていました。
スリランカの家は鉄筋コンクリートとレンガなども使われて作られています。
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<家の建設するにあたって>
皆様から集まった義援金をいかに直接被災者へ届けることができるか。
そして、現地で本当に求められているものを提供したい。
これは、現地で一緒に活動してきたみんなの共通の思いでした。
だから、第一回目の時に、すべて食べ物だけで使い切らずに残しておいて、何に使うべきか慎重に検討を重ねました。
足踏みミシンを買って提供するというアイデアも生まれましたが、それも色々な理由で断念しました。
そこで、1年経ってもまだ住む家がない方がたくさんいて、未だにテント生活を余儀なくされている人がたくさんいる現状を思い、家の建設にそのお金を当てることに決めました。
やはり、阪神大震災でも問題になりましたが、こういう災害で一番の被害者は、低所得層の方達なのです。
現地にはそのような方の被災者リストがあり、中から3家族を現地の方に選んでいただいて、
今回、3件の家の建設に携わることが出来ました。スリランカの家作りは2ヶ月ほどかかります。(小さい家の場合)
そして、1月に私が行く予定にしていましたので、それに合わせて完成するように配慮していただいて、私を新しい家のオープニングセレモニーに呼んでくださいました。
<スシーラティーが建てた家>

ここに住む方々が私達の到着を待っていてくれていました。
当日、彼らは引越しもすませたばかりで、家は、本当に完成したところで、少し工事が残っている部分もありました。
敷地の入口に、という看板を立ててくれていて、「SUCIELA TEA COLLEGE TSUNAMI FUNDED JAPAN」という看板を立ててくれていてみんなの義援金が形として残ったことを実感して、非常にうれしかったです。
家の作りは、リビングとキッチンとベッドルーム、バストイレが一つずつ付いている設計です。
狭いとはいえ、屋根があることは予想以上に人々に安心感を与えるということを、改めて感じさせられました。
スシーラティーでは建物の建築費を負担しましたが、土地は他国の個人団体が買って寄付したものです。
このように、色々な方面からの援助が今のスリランカを救っているという状況です。
<オープンハウス セレモニー>

3軒すべての扉には白いリボンがかけられていてテープカットをし、正式に鍵を住む方へ手渡しました。
当日は、常にお世話になってきた、地元の政治家の方にも来ていただいて、テレビや新聞社も来るなど、予想以上に盛大なものになり、私はかなり緊張しました。
<この家に住む家族達>

1軒に6〜9名の家族が住むことになっています。
左写真の左端の女性は、津波で3人の子供全てを失いました。
この家では、親を失った親戚の子供達と、夫と、母親と一緒に住みます。
右写真も夫を亡くし、小さい子供や親を抱えている家族です。
子供達のうれしそうな笑顔に、本当に良かったなという気持ちと、それでも、失った家族は戻らない切ない気持ちとが入り混じり複雑な気分でした。
これで少しでも彼女達の不安な気持ちが和らいだのであれば、スシーラティーとしてこの活動をやってきて本当に良かったと思いました。
<1年後の状況>
阪神大震災を経験した者としては、1年経った今でも、倒壊した家がそのままの形で残ったり、テント生活だったりする景色に、やはり国の貧しさを感じずにはいられませんでした。
日本では、1年後には、なんとか多くの方は元の生活に近づいて生活していたからです。
スリランカでは、見るからに、まだ職も住む場所も無い状況の人がたくさんいました。
仮設テントで暮らす人々も海の近くではたくさん見かけました。昼間は相当暑くなるこのエリアで、
テント生活は想像以上に大変だと思います。それが既に1年も続いているのです。
また、外国のボランティア団体が長屋のような家を、ところどころ建築中でした。80世帯が住めるような大規模なものもありました。
また、資金が途中で尽きて、中途半端に工事がストップしている家も多数見かけました。
そして、全て見ていて思うのは、外国のボランティア団体、ユニセフ、NPOなどの活動ばかりだということです。
日本の活動も多く見受けられ、日本の国旗のマークの入った車や看板を良く見かけました。
スリランカ政府へ送られた義援金は莫大なものであるにも関わらず、上手く運用されていなく、まだ手元に残っているという話でした。
なかなか全てに平等に支援をいきわたらせようというのは難しいとは思います。
しかし、政府は別の政治の問題に忙しく、なかなか本当に困っている人達に目が向けられないのが現状のようでした。
国民が政府に向ける期待は、ほとんど感じられなかったのが、とても印象に残っています。
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義援金総合計金額 706,402円 (ルピーでは、629,545 ルピー)換算率 0.8912で計算
1回目 救援物資 300世帯分の食料や日用品 241,261 ルピー
2回目 テント支給 10,000 ルピー
3回目 日本語現地ガイド、ケンゾウさんへの見舞金 20,000 ルピー
4回目 家の建設 364,500 ルピー
合計 635,761ルピー
少しオーバーした部分は、スシーラティーより補充しました。

一階 良知 様 中島 千穂 様 遠城 靖 様 下雅意 礼子 様
吉田家親族 石田 ますみ 様ご友人 山添 マチ 様 除田 かおり 様
Jill & Janet 様 阪本綾子・池本圭子・樋口 様 石田 ますみ 様 森 ひとみ 様
桜井 亜矢子 様 ご友人 様 大坂 志保 様 桜井 淳子 様 鴨下 愛子 様
久本 直美 様 半塚 具子 様 上野 明美 様 川浦 典子 様
阪本 綾子・池本 圭子 様 鶴井 ゆかり 様 川畑 志保路 様 荻野 真由美 様
鈴木 優子 様 中西 千草 様 塚尾 ゆきこ 様 村上 好美 様
清水 文子 様 釜江 和恵 様 吉田 佐和子 様 村上 部長 様
石田 裕美・西川さえ 様 高原 佳代 様 スミス英会話 様 高松・川口 様
フランス料理教室 「コアン・デ・デュ」様 田中 克美 様 林 郁子 様 飯田 玉緒 様
近藤 紀子 様 阿南 倫子 様 東 洋子 様 荒瀬 友里 様
冨樫 信子 様 築山 典子 様 杉山 智子 様 中山 由美子 様
村上 好美 様 ご友人(山口正子 様) 塚田 陽子 様 森平 尚美 様 藤井 マヤ 様
永田 愛子 様 杉本 泉 様 村上 朗子 様 東 郁子 様
角南 先生 ティーハウスムジカ 堀江 様 塩谷 直子 様 伊藤 かおり 様
中道 有美子 様 木下 順子 様 矢野 リエ 様 村上 好美様 ご友人(岡田和子 様)
平石 恵子 様 池本 圭子 様 瀬尾 たく 様 米子 友梨 様
大江 希実 様 福井 敦子 様 高田 幸子 様 古谷 朋子 様
皆川 様 八木 良治先生 壽 恵美 様 柳瀬 ユミ 様
小山 りさ 様 さかもとこうじ 様
岡川万里子 様 加藤 ちえこ 様 小林 明美 様 平田 さおり 様
中西千草 様 尾熊 ひろみ 様
皆様本当にありがとうございました。
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